大野谷文化圏活性化推進委員会
祭礼  ▶民俗行事  ▶人物  ▶歴史  ▶その他
祭礼
唐子車
唐子車
住所/常滑市大野町2-64
唐子車は、小倉神社の氏子高須賀町に所属する山車である。唐子車の歴史は古く、弘化四年の「永代記録」によれば、寛保元年(1741)「祭礼初めて出来酉八月」とある。このことから、現在曳かれている知多半島の山車では、最も古いものといわれている。この時の費用は、金一〇両と一貫三百三十二文かかったと記録されている。  
形式は、上山にからくり人形を載せた名古屋型の二層四輪(外輪)で、常滑市の有形民俗文化財に指定されている。代表彫刻は、欄間が「松」、麾振り台が「龍」で、名古屋の彫刻家瀬川治助重光の作である。水引幕は、狩野派、土佐派の大家森高雅の下絵によるもの、「鳩群飛」という作品である。  
からくり人形は、天明五年(1785)名古屋の人形造りの名人蔦屋藤吉の作である。麾振りと大将座に塩土老翁が坐りその前で大唐子、小唐子が演戯をする四体からなる。塩土老翁の前で、大唐子が子唐子を肩車に乗せ、松の木に下げられた太鼓を囃子に合わせて叩く離れからくりである。
紅葉車
住所/常滑市大野町5-25
紅葉車は、風宮神社の氏子橋詰町に所属する山車である。文久三年(1863)名古屋の御車大工酒井久七によって造られた。形式は、上山にからくり人形を載せた名古屋型の二層四輪(外輪)で、常滑市の有形民俗文化財に指定されている。  
代表彫刻は、瀬川治助重光の作である。上支輪「雲に星」で黒の漆地に雲を木で彫り金を塗り、星は金物などで止めてある。高欄は「源氏香」を配し、漆塗彩色仕上げとなっている。  
水引幕は、喜田華道の下絵による鶴が刺繍されている。  
からくり人形は、大将座に豊太公、中唐子、小唐子(逆立唐子)と麾振りの四体である。人形衣装箱には「天保六年(1835)乙未八月吉日」と記載があり、作者は五代目玉屋庄兵衛である。  
小唐子が紅葉の幹に逆立ちをして、囃子に合わせ首を振りながら鉦を捌き打ち鳴らすのは、大変珍しいものである。
権丸
住所/常滑市大野町4-132
権丸は、江﨑社の氏子権現町に所属する山車船(まきわら船)である。  
町内保存の船櫓囲の緋毛氈の幕に安政二年(1855)乙卯八月吉日の記録がある。  
現在の「権丸」は伊勢湾台風で破損して以来二九年ぶり、昭和六十三年四月に復元されたものである。  
現在、祭船の寸法は、全長一〇・一㍍、最大船幅三・六㍍の双胴船である。二艘つなぎの船の上に屋台を組み、その中央の神柱に十二ヶ月を表す十二個(閏年には十三個)の赤い提灯と、三六五個(閏年には三六六個)の白い提灯を半球状につける。屋台の周りには十六個の社紋「木瓜龍」の長提灯を付ける。  
祭礼には、半球状の白い提灯が、囃子に合わせて荘厳かつ華麗に回転する。提灯が廻るまきわら船は、全国でも数少ない。
梅螢車

梅榮車
住所/常滑市大野町7-88
梅榮車は、天満社の氏子十王町に所属する山車である。現在の山車は、嘉永元年(1848)に新調したもので、その費用に五七五両を要したという。上山にからくり人形を載せた名古屋型の二層四輪(外輪)で、常滑市の有形民俗文化財に指定されている。  
代表彫刻は、「鳳凰」「龍と蝙蝠」。水引幕は、唐織錦の「蜀江の錦」である。  
からくり人形は、大将座に「菅神渡唐像」、その前に「横笛童子」、蘭陵王に変身する「面被り童子」、前棚には「麾振り唐子」と、四体の人形が載せられている。制作はいずれも、嘉永元年(1848)、名古屋のからくり人形師二代目隅田仁兵衛眞守によるものである。
演目としている「蘭陵王」は、今日舞楽で最も演じられるものの一つである。その昔、北斉の武将「高長恭」はあまりの美形のため、兵士たちは戦う気力が出なかった。そこで、自ら恐ろしい形相の面をつけて戦い、見事勝利した英雄伝である。「横笛童子」の笛の音に合わせ童子がゆったりと舞っていたが、後ろを向いた途端、面をかぶり激しく舞う蘭陵王へと変身するところが見どころである。  
また他にも、市河米庵による前幕「十王町」の文字や、彫雲堂勝蔵による彫刻などが随所にみられる。

小倉車
小倉車
住所/常滑市小倉町1-24
祭礼の歴史は古く、雨具の箱に嘉永元年(1848)、幕箱に安政六年(1859)、提灯箱に小倉組の名称と共に天保十五年(1844)の年号が残されている。言い伝えによれば名古屋より山車を購入し、毎年七月十五日夏祭りとして、小倉区内を曳き回していたという。昭和三十三年以降は、四月十五日に小倉天神社境内に飾られるのみとなっていた。  
山車の形態は、前人形を置く舞台や大将座が広くなっている名古屋型の特徴を示している。  
囃子には、奉納の「神楽」、山車を動かす「通行」、山車を止める「岡崎」、行事の前の「打込」、祭りの終末の「祇園」などがある。  
昭和六十年(1985)に山車を修復し、平成五年に曳き回しを復活させ本格的な祭りとなった。山車本体や飾りが修復され見違えるほどになった。新調した横幕には地元ゆかりのキツネ塚と衣掛の松の絵柄を入れ、小倉車にふさわしいものとなった。
西賽車
西寶車
住所/常滑市西之口8-1
西寳車は西之口郷中を中心として受け継がれた山車で、神明社の祭礼のときに雷神車とともに曳き廻していた。  
祭りがいつ頃から始まったか定かではないが、文化文政ころ奉行所にしがく車(提灯車)二台を曳いていることが報告されている。また、知多型の前檀の部材が残っていることや嘉永四年(1851)の道具覚えに山車や馬道具が記載されていることから、それ以前から行われていたことが分かる。  
現在の山車は天保六年(1835)大野橋詰町で建造され、文久三年(1863)西之口が橋詰町より米約七〇俵で購入した。明治二十五年にざい振人形を新調したが、どこから購入したかは不明である。  
大正十三年に水引き幕(波と千鳥を金糸で刺繍)を新調した。昭和三十一年まで祭りは盛大に行われていたが、その後社会情勢の変化の中で、曳き手が少なくなり山車曳きは休止された。  
平成四年の御遷宮のとき、区民からの浄財で山車を修復し祭りが復活した。
平成十年糸からくり文字書き人形(背中から文字板が出てきて、人形が文字を書く)二体を作成する。平成十一年糸からくり大将人形一体を作成する。平成十六年大修理(台輪と上山の塗り、箔、金具のメッキ等)を行う。平成十七年上山四柱に取り付ける幕(かすみ幕)を新調し、現在に至る。 お囃子 ・お神楽《きつね囃子、ふたつ囃子、西之口囃子、神明くずし》 ・勇み囃子《道行き(竹に雀)、半僧坊打ち込み、常夜灯打ち込み(岡崎打ち込)、神前打ち込み、打ち出し》 ・山車囃子《車切りと狂言神楽、大神楽、遊神楽と早神楽、八平、七軒町》
雷神車
雷神車
住所/常滑市西之口8-1
平成四年に復活した雷神車は、旧広井村中之切(現名古屋市中村区)で天保十三年(1842)に建造され、張良車の名前で名古屋三大祭りの一つ、三之丸天王祭りの見舞車として曳き廻されていたものである。明治維新で三之丸天王祭が中止になり、明治十一年(1878)に、鉄砲津が金百五十円で山車・人形・幕一式を買い受け「龍神車」と命名し旧六月十五日祭礼を行ったという。雷神車への名称の変更は定かではないが、明治二十六年(1893)には、雷神車となっている。  
鉄砲津の祭礼は、大太鼓に天保十四年(1843)の銘があることから、それ以前から行われたと考えられる。明治九年(1876)に旧車を本地村(名古屋市南区本地)に売却し現在の山車を購入した。  
からくり人形は、山車購入当初、黄石公・張良・龍神(面被り)・ざい振り人形があり、山車引き廻しの際に載せていたと思われるが、明治中ごろから上山人形の記録がなくなっている。いずれの人形も弘化四年(1847)に隅田仁兵衛眞守によって作られたものである。また、あやつり人形の題材が「張良」のため、大将は黄石公であったが、現在は天照大神となっている。変わった理由は不明である。  
水引幕は、明治二十六年に金二六円で購入されたもので、白羅紗に蝙蝠の図柄の刺繍が施されている。
唐子車祭囃子
江戸時代中期より、大野祭りで尾張大野高須賀町に綿々と受け継がれてきた小倉神社(旧・牟山権現)の唐子車祭り囃子がある。  宵神楽の山車運行の楽曲には、あまだれ笛を使う「雨垂れ(七軒町)」、能管を使う「車切り」「狂言神楽」「八兵衛」があり、吊太鼓、締太鼓(2張)、小鼓(1張)と併せて演奏される。 本祭りの山車運行では、「大神楽」「遊神楽」「早神楽」「車切り」「横須賀車切り」「狂言神楽」があり、能管を使用し、吊太鼓、締太鼓(2張)、小鼓(1張)と併せ演奏される。からくり人形遊戯時には、「車切り」は能管、人形囃子で「では」「三番叟」「人形舞(ちんかん)」「下り囃子」を人形囃子専用の笛を使用し、吊太鼓、締太鼓(2張)で演奏する。 勇み囃子では、「平八(道行き)」「戻り囃子」「本打込み」「西之口打込み」があり、御神楽に「神明神楽」「宮神楽」「獅子神楽」「獅子崩し」「参門神楽」等他数曲ほど残っており、草笛(あい尺笛)を使用し、大太鼓、センベ太鼓で演奏する。また、余興囃子として「竹雀」「六法」「六斎」「十日恵比寿」「赤猫」の楽曲がある。
紅葉車あやつり人形芸能
江戸時代より、尾張大野橋詰町に受け継がれてきた紅葉車のあやつり人形芸能は、四体の「からくり」人形(前唐子、子唐子、中唐子、豊太閤)が笛・太鼓の音曲に合わせて芸を行うものである。大野祭りで風宮神社に奉納される。 演じる場面は、大閤秀吉公が京都「聚楽第」で、唐子の曲芸を見て楽しんだという、故事を演ずるもので、上山に載るからくり人形は、大将人形の「豊太閤」の御前で中唐子の叩く太鼓に合わせてもう一体が紅葉の木の上で倒立しながら鉦を「捌く(さばく)」というもの。鉦を叩くのではなく左右に捌いて鳴らすこの様式は数少ないといわれる。 からくり人形は、『五代目玉屋庄兵衛』作(天保6年)である。
紅葉車祭囃子
江戸時代末期より、大野祭りで尾張大野橋詰町に受け継がれてきた風宮神社の紅葉車祭囃子21曲がある。 夜神楽に吹くお囃子は、「中須賀」「七軒町」で、夜神楽笛が使われている。本祭りでは、「中神楽」「早神楽」「横須賀車切」「大神楽」「八兵衛」があり、能管が使われている。また、はなれからくりの時の人形囃子として「出羽」「チンカン」「蛇の舞」「早笛」があり、能管が使われている。 さらに、門付(道行)では、「平八」「もどり囃子」「竹鈴」「御神楽」(5曲)「西之口打込」「本打込」があり、草笛が使われている。人形操作の曲は、「出羽」「オヒャーオヒャー雀の舞」「早笛」がある。 夜神楽「中須賀」は、奈良時代の仏教音楽からきているといわれている。
民俗行事
おたちくさん
おたちくさん
おたちくさん
大野湊は中世から海運業の拠点として発展してきた歴史があり、同じ海運の港町として、尾張津島神社とも密接なつながりがあった。津島天王祭の影響が権丸(まきわら船)にその名残りがみえる。七月には町内の天王祭である「おたちくさん」が現在でも行われている。  
江﨑社では尾張津島神社からお札を受けてきて、一週間境内に笹飾りを施して神域とし、津島社をお祀りし、家内安全・無病息災などを祈る。最終日には、権車に竹飾りを施し、お囃子とともに町内の家々を巡る。  
津島神社は、牛頭天王・須佐之男命を祀っている。牛頭天王は疫病をはやらせる疫神とされ、日本神話のスサノオの化身や仏教では薬師如来の化身だともされいてる。  
なぜ、人間に害をおよぼす神が祀られるのだろうか。そこには崇りの信仰がある。古くから、死んだ人の霊が疫神になり、疫病をはやらせたのだと考えられていた。このように、祟る神を丁重にお祀りすれば、今度は逆に災いから救ってくれると考えたのである。  
そもそも夏祭りは疫病から逃れようという疫病送りの意味があったようである。
うんか送り
虫送り
尾張の虫送り行事「矢田の虫送り行事」
矢田地区の「うんか送り」と「虫送り」は、害虫を退治して、秋の豊かな実りを願う農村の伝統行事で、県無形民俗文化財に登録されている。「うんか送り」は、「サネモリ人形」と「フウフ」と呼ばれる鳥を、高さ四㍍ほどの竹の先に取り付け、先頭の人が高く掲げる。太鼓やほら貝の音とともに矢田川沿いを四百㍍ほど練り歩く。「サネモリ」は源平合戦で命を落とした斎藤実盛を指す。馬が稲の株につまずいて討ち取られたため、害虫に生まれ変わったと伝わる。 「虫送り」は、太さ20~30センチ、長さ1~3メートルのワラのたいまつを作り、それを掲げて行列をつり矢田川沿を進む。これは、夜八時頃、村の代表が八幡社より神火を頂き、その火で各々がたいまつに火を灯し、たいまつの火で稲の害虫を誘い出し、村の外へ送り出そうというものである。
人物
お江
お江(小督、江与などとも呼ばれる) は天正元年(1573)、父は近江北部小谷城主浅井長政、母は織田信長の妹お市の方の三姉妹の末娘として生まれる。姉は茶々(淀君)とお初(京極高次の妻)である。お江が三才の時に小谷城落城に伴ない、母とともに伯父の信長に保護される。  
秀吉のすすめで、大野城主佐治与九郎一成に嫁ぐが、離縁、原因は不明だが秀吉の命令とされる。次に、秀吉はお江を姉の子の羽柴秀勝に嫁がせる。  
秀勝は亀山城主であったが、後に岐阜城主となる。しかし、文禄元年(1592)、朝鮮の役に出陣し、唐島で死亡する。お江は秀勝との間に完子という女の子を産んでいる。姉の茶々が完子を引き取り大阪城内で育て、長じて関白九条兼高の子、中納言忠栄に嫁いでいる。  
文禄四年(1595)秀吉の命で、今度は徳川秀忠に嫁ぎ正室となる。千姫(豊臣秀頼の正室)、珠姫、勝姫、初姫と女の子ばかり産んだが、慶長九年(1604)、竹千代(三代将軍徳川家光)を産む。その後、次男忠長、五女和子姫(後水尾天皇の中宮・明正天皇の母)を産む。  
お江は、乳母が春日局である家光を疎み、次男忠長を後継者に望んだという。  
寛永三年(1626)九月十五日に江戸城にて死亡。享年五四歳 崇源院
佐治氏
佐治氏
佐治氏
山海の岩屋寺に重要文化財の大蔵経がある、これに宝徳三年(1451)に大野城主の佐治右衛門尉盛光が寄進したと記されている。佐治駿河守宗貞が近江の国から招かれてきて初代大野城主となる以前から、大野城主を名のる佐治氏がいたことは確なようである。  
初代大野城主佐治駿河守宗貞は、大野湊はもちろんのこと大野谷の守りを固め、師崎の幡頭崎(羽豆岬)陣代を出し、内海に岡部城を築き伊勢湾の制海権を堅固に守っていた。  
そして、享禄三年(1530)九月七日に亡くなり、小倉山蓮台寺に葬られる。法名 齊年壽山。  
二代大野城主佐治上野守為貞が父の法名を寺号とした。齊年寺を建立し菩提寺とし雪舟筆の慧可断臂図を寄進している。  
三代大野城主佐治八郎信方は、信長に大野水軍の力を大きく評価された。信長は、妹の於犬の方を信方に嫁がせ配下に組み入れた。天正二年(1574)信長の長嶋一向宗の門徒攻めに参戦し二二歳で討ち死にしている。  
四代大野城主佐治与九郎一成は、織田家の庇護のもと成人し、家督を相続する。  
信長の甥に当たり、母於犬方の妹、お市の方の末娘お江を妻とするが、この結婚は秀吉の機嫌を損ねて連れ戻される不幸な結果に終っている。  
秀吉と徳川家康・織田信雄の敵対から発生した天正十二年(1584)三月の小牧・長久手の戦いにおいて、一成は合戦後に家康が三河へ帰陣する途中の佐屋街道の渡しにおいて家康に船を提供し、秀吉の怒りを買い大野城を退去したという。  
一方、文書上においては小牧・長久手の戦い後にも一成の大野支配が確認されているが、天正十三年(1585)の頃とみられる「織田信雄分限帳」においては一成の名が見られず、一成の大野退去は小牧・長久手後の論功行賞によるものであると考えられている。  
その後の一成は、伯父・織田信包の領する伊勢へ逃れてその家中にあり(丹波・柏原藩筆頭家老など)、後に渡辺小大膳の娘と再婚する。嫡男為成は弟・中川秀休の養子とする。一成は、剃髪し巨哉と号す。その妻が亡くなり、慶長十七年ごろ信長の末娘、於振を正室に迎えたと伝えられる。  
寛永十一年(1634)、京都にて死去した。享年六六歳。墓所は織田信包、母於犬、於振と同じ龍安寺塔頭霊光院にある。
大野氏
写真準備中
一色氏
写真準備中
良忍上人
写真準備中
酒造業 木下仁右衛門
寛永年間に江戸で将軍家家光公にお目見えし諸大名家にも出入りしていた法箸木下宗貞という人物がいた。宗貞は大野が出生の地であったことから、寛永五年に大野へ帰って大野の取締を命じられ、その子木下仁右衛門政則は大野船庄屋を務めた。 木下仁右衛門は酒造に力を注ぎ白梅酒を造って尾張藩主徳川光友へ献上した。貞享三年に十王調に住居を定め、元禄九年に北浦へ酒造を造った。その後、保命酒や忍冬酒などを製造し、江戸幕府の御用商人として多いに名声を高めた。 木下仁右衛門が屋号に江戸屋としたのは法橋宗貞が江戸に居たことによるものであろう。 江戸屋が尾張藩のもとへ名酒を納入するには、酒を一升入の瀬戸壷に入れ、麻縄で括り、それをもみの箱に入れた。それを小長持に入れて運ぶ。 この小長持には、葵の御紋が付いていて運ぶ前方には丸八印の高張提灯をかかげて、夜間でも村次で納入したという。
写真準備中
豪商綿屋六兵衛
慶長の頃(1596〜1615)、佐治家の過信に平野国秀がいたが、佐治家没落後、大野村に居住した。その子萬右衛門は百姓になった。そして、三河から綿の種を取り寄せ、大野付近で、初めて綿の栽培を試み成功した。その後、綿屋を開業し、以後綿屋六兵衛を名乗り「綿六」と称された。 「綿屋が繁昌すれば、綿を紡ぐ者が出来、手織りで綿布にする者が出来、晒屋が出来、紺屋が出来、仲継問屋が出来る」(大野町史)このように、綿六の繁盛は、大野産業発展に大きく寄与した。 各方面における綿六の足跡をあげれば、次の通りである。
・大和(奈良県)長谷寺観音堂の回廊を一寄進した。(年代不詳)
・延宝八年(1860)藩から二一九〇両の御用金を仰せ付かった。(注)御用金は、江戸時代、政府に非常の事件が起こった時、江戸。大阪などの金持ちに献納させた臨時の徴税金。諸藩でも行われた。
・文化年間(1804〜1818)海西郡(現在の海部郡)に新田を起こし、「綿屋新田」とか「六兵衛新田」と呼ばれた。
写真準備中
豪商浜島伝右衛門
浜島伝右衛門は、知多郡古見村の出身で、大野村へ移住してから、木綿商売を始めた。天明年間(1781〜1789)知多郡木綿買継問屋隣成功した豪商である。 その住居は、大野の中心にあり、古図によれば広大な面積を有している。家屋内の通路は石畳となっており、それぞれ土蔵の前まで続いている。 また、伝右衛門は、信仰心も厚く、各地寺社への寄進も多い。
・齋年寺の経堂、享保三年(1718)四月、五世直利が、一切経黄檗版と共に経堂一宇を寄進したものである。
・大野十王堂の慈恩王像、寛保元年(1741)他の有力者と共に、十王像を寄進した。伝右衛門は慈恩王像を寄進した。
・西之口神明社の文庫、宝暦三年(1753)文庫と蔵書を寄進した。また、文庫田を寄進した。
・矢田の薬師堂の絵馬、安永七年(1778)八世延春が、三人の唐人を描いた絵馬を寄進した。この絵馬は、常滑市指定文化財となっている。
・小倉神社の額絵、伝右衛門は、牡丹の額絵二枚うぃを寄進した。年号は不詳である。
・夕隠茶会、安永年間(1772〜1781)伝右衛門は、自分の邸に、夕隠茶席を建てた。
写真準備中
廻船惣庄屋中村権右衛門
中村権右衛門家は、元和三年(1617)以来、廻船惣庄屋の職を、代々務めてきた名家である。 中村家の初代は、源右衛門重政という。天正九年(1581)大草城建設のため、普請奉行として来た三河田原藩の中村伊織之輔に従ってきたが、普請は、本能寺の変のため中止となった。重政は、大野庄湊村に居住することになった。
元和三年(1617)初代尾張藩主義直公が、知多巡見の際、日長沖において難風に遭った。その時二代目権右衛門重直は手近かの船々を引き連れて、一早く救助に駆けつけ、大野湊へ無事案内した。その功績により、尾張藩船手奉行千賀志摩守のもとに廻船惣庄屋を仰せ付けられた。廻船惣庄屋は、知多郡の東西海岸全般の船舶を管轄する職務である。
中村家の屋敷は、大野村の大野橋北詰から西方の辺りにあり、人々は、この屋敷を[船各所」と呼んでいた。 大野町の小倉神社には、天保九年(1838)十代目権右衛門重政が寄進した、「正一位小倉天神」の額が保存されている。
歴史
写真準備中
大野水軍と九鬼水軍
初代佐治駿河守宗貞は内海に岡部城を築き伊勢湾の制海権を堅固に守っていた。  
信長は、三代大野城主佐治八郎信方の大野水軍大将としての力を大きく評価し、配下に組み入れている。  
家康が天正十年(1582)本能寺の変のおり、伊勢白子から大野へ渡海した時に乗った舟は虎丸といって、長さ四二尺三寸の大きさであった。このことは、山田奉行所が徳川家へ差出した書類に載せられている。  
九鬼水軍は長嶋の役に織田方として海路から長嶋城に攻め入り、敵を破り、信長の信任を得ていた。天正十二年(1584)小牧・長久手の合戦の時に、家康は戸田三郎忠次に命じて大野を守らせたが、九鬼との戦が始まり、そのとき九鬼は火を大野に放ち民舎寺堂を多く焼亡させた。
慶長五年(1600)石田三成が家康に反旗をひるがえしたので、九鬼は三成に通じることになり東海の津々浦々へ兵船で押寄せて兵糧を奪った。馬走瀬(横須賀)で放火、 鍛冶屋村(日長)瑞光寺放火、大野光明寺放火寺宝多数焼失、常滑天澤院殿堂宝物焼失。
写真準備中
一口香の元祖 湊屋
湊屋は、江戸時代から続いている老舗の菓子屋で,特に銘菓一口香の元祖として有名な店であった。
伝えによれば、一口香は、明暦年間(1655〜1658)に作り始められたとされているが、黒砂糖を芯にして小麦粉の皮で包んで焼いた素朴な味を賞翫されてきた。
初めは、芥子香とよばれていたが、元禄の頃、第二代目尾張藩主光友公から一口香の名を頂戴して、改めたといわれている。
一口香は中が空洞のお煎餅のような饅頭で、なぜ空洞になるのかは製法に秘密があるようであるが…一説によれば麦粉、もち米、あめ、唐灰汁を調合したものが外皮で、中に黒砂糖・水飴・麦粉、はちみつ・唐灰汁を調合したものを外皮で包み、窯で焼くと水分が発散する際に中あんがふくれ、外皮の内側が空洞になるとのことである。
なお、一口香は中国帰化人によって伝えられたという説もある。
写真準備中
味噌・溜り 三河屋
溜りは知多郡大野を起源とし次第に知多郡各地に普及し、続いて伊勢や名古屋、三河、美濃の各地に伝わっていったものと考えられる。
三河出身の三河屋萩原宗平は、元禄元年(1688)郡内で初めて味噌の製造業を始めたという。
元禄十二年(1699)味噌の渋みを抜くことに成功したのち、販路を名古屋まで拡大して、文化十二年(1815)には尾張藩御賄所御用達となっている。さらに幕末には江戸、大阪、京都等にも進出して支店を持つほどになった。
萩原宗平は田宮如雲、田中不二麻、丹波賢、松本圭堂等の幕末の志士などとも交際があったといわれる。
写真準備中
梅榮車祭囃子
十王町の山車梅榮車(常滑市有形民俗文化財)は、天明5年(1785)ごろ建造され毎年曳き回されたが、現在の山車は嘉永元年(1848)に改めて創建されたものである。からくり人形4体が乗せられ、大野祭りで披露される。この時、山車の運行に合ったいろいろな囃子が演奏される。 宵神楽には歌神楽・七軒丁、本楽には悠神楽・大神楽・人形、両日演奏されるのは、斜切・早神楽・八兵衛・伊兵さ・お神楽の7曲がある。使用される楽器は、大笛(能管)・草笛・小太鼓・せんべ太鼓・大太鼓・楽太鼓がある。 毎年4月の天満社祭礼には、梅榮車の御神楽とお囃子が奉納される。
写真準備中
東照神君御影(徳川家康画像掛け軸)
若き日の家康公画像 徳川家康画像掛け軸について、東龍寺の記録には、直接家康公からの拝領物ではないが、生母伝通院(於大の方)が、下賜された画像であることが書かれている。若き日の家康公の画像は少なく珍しく、その点からも東龍寺と家康の関係をうかがい知ることができる。 具体的には「桶狭間の戦い」で、今川義元が織田信長に討たれたとき、大高から大野東龍寺に逃れて助かり、ここから三河に戻ったこと。過去帳(常滑市有形文化財)に記述がみられる「本能寺の変」に際し、徳川家康を助けたこと。また、家康は将軍になってから、多くの絵画などが下賜されていること。寺領40石を与えたこと。将軍家は、代々朱印状を与えたこと。尾張徳川家も藩主が東龍寺に来たこと。また、寺に徳川家の家紋である「三つ葉葵」の使用を認めていることなどがあげられる。
その他
写真準備中
あやつり人形の首
内宮御祭宮社
30あやつり入形の首三六個(二箱)大野内宮御祭宮社あやつり入形の首三六個は、明治初年まで夏に内宮社の境内で小屋掛をして、浄瑠璃にあわせて踊らせたものである。 一方の箱には、『寛政九年丁己六月砂若』『京都富小路角磯屋六兵衛より尾州大野あさや宗四郎様』と記されている。 他方には、『若連中蝶箱壬午文政五年六月吉日砂若』.と箱書きがされている。いずれも江戸後期の庶民性をうかがわせる作品である。
写真準備中
蓮台寺伽藍絵巻
蓮台寺寺宝 創建当時の蓮台寺山内が描かれており、一山十七坊の境内の様子がわかる。一色氏(鎌倉時代の三河国守護職で鎌倉時代末期には知多半島を治めていた。室町時代に大野城を築城した武家)の名前や正和3年(1314)の文字が見られる。住職鈴木氏の話によれば、「花園天皇の勅願寺として創建された当時の様子を示しているが、衣掛松が描かれていることから後世に描かれたものと思われる。」とのことである。
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織田有楽長益寄付の太鼓
蓮台寺寺宝 蓮台寺は、花園天皇の勅願所であり、佐治駿河守宗貞や織田有楽の保護のもとに一山十七坊もある大きな寺として栄えてきた。洞に「天正三年三月織田有楽公御寄進」とあり、天正三年(1575)に、織田信長の弟、有楽が寄付したされる太鼓である。 佐治四代与九郎の支配する末期に実権は有楽に移っていたようである。
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(大野城初代佐治駿河守寄付の名が彫られている)小喚鐘
蓮台寺寺宝  境内には寿山塚と呼ばれる古墳があり、その前に古い宝経印塔が立っている。この塚は、初代大野城主佐治駿河守宗貞の墓だといわれていて法名を「斉年寿山」といい、城内の斉年寺に葬るべきところを寺城がせまいのと色々な事情によりこの地に葬ったのであろう。その縁でこの鐘を寄進したと思われる。佐治駿河守と年号の大永七年亥一一月と彫られている。
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鴛の香炉
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小倉のミニ歴史
「身に入るや夕汐風の朝すゞみ」これは、永禄十年(1567)に里村紹巴が小倉道場(蓮台寺)で詠んだ句である。  
江戸時代の終りごろには中央に蓮台寺、蓮生寺、三光院、北方には三狐神社(社串とも書く)今の小倉天神社があり現在とほぼ同じ光景であった。  
また、元禄十年(1697)の「酒かぶ帳」には長五郎という酒造家が、亨和二年(1802)の「鍛冶職人別名前覚」には市左衛門をはじめ二三名の鍛冶職人が記されている。  
昭和四年には、出稼ぎに三河方面へ二五戸、尾張方面へ十七戸、岐阜方面へ七戸とユザキ(湯先)といって農具の刃先の調整・修理に出かけている。
小倉の戸数は、江戸時代の初期頃一二〇戸、明治の初期には一六〇戸、昭和十三年には一六五戸、昭和四十五年には三一一世帯、平成二十四年六三二世帯となる。 ※里村紹巴 戦国時代の連歌師。公家の三条西公条をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など多数の武将とも交流を持ち、天正十年(1582)、本能寺の変の直前に明智光秀が行った連歌の会「愛宕百韻」に参加したことは有名である。

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お囃子
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新舞子マリンパーク
住所/知多市新舞子
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