大野谷文化圏活性化推進委員会
見て歩き文化財
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神社
日長神社
日長神社
住所/知多市日長字森下4
白山社
白山社
住所/知多市新舞子北屋敷7
稲荷社
稲荷社
住所/知多市金沢字稲荷山32
八幡社
八幡社
住所/知多市大興寺字落田57
八社神社
八社神社
住所/知多市金沢字郷中33
八幡神社
八幡神社
住所/常滑市矢田字海道52
八幡社
八幡社
住所/常滑市久米東郷43
諏訪神社
諏訪神社
住所/常滑市金山字菖蒲池61
小倉神社
小倉神社
住所/常滑市大野町2-211
   小倉神社は、大野町高須賀町・市場町の氏神である。昔は、大野・小倉両村の氏神であった。祭神は、高皇産霊尊、塩土老翁の両神である。神社の創建年代は不詳であるが、伊勢神宮の末社相鹿牟山の社を勧請したものといわれ、牟山権現と呼ばれていた。「塩」は「潮」のことで潮流をつかさどる神、海路の神、航海の神などといわれ、いずれにしても海に関係した神である。 現在でも神社の前の通り辺りは、ミヤマド(「牟山通り」の転化)といわれている。神社名は文政二年(1819)小倉神社に改められた。 社殿には、大野の廻船惣庄屋中村権右衛門が寄進した社名額、また大野の豪商浜島伝右衛門が寄進した牡丹の絵の額が奉納されている。 境内には、徳川家康公の家訓之碑「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくか如しいそくへからす…」がある。 神徳…諸願成就・開運招福・厄除け・縁神徳は、漁業・農業・製塩などの産業発展・海上安全・延命長寿・家内安全・安産守護など
風宮神社
風宮神社
住所/常滑市大野町5-24
   風宮神社は、大野町橋詰町の氏神である。御祭神は級長津彦命、級長戸辺命の両神である。 神社の創建年月は不詳である。明治二十七年(1894)神明造りの社殿が再建された。境内には、東郷平八郎元帥が揮毫の忠魂碑が祀られている。 御祭神の級長津彦命は、またの名を志那津比古神といい、日本書紀に伊弉諾尊が吹き放った気息から生成された風の神といわれている。 風の神祭り信仰は、災いをもたらす風の神を大事に祀る儀式である。作物は豊かな実りを迎えることができ、漁船は無事に航海して豊漁に恵まれる。疫病は退散し、台風などの災害による被害も最小限にとどまるという。 神徳…航空関係守護・海上安全・豊漁・悪疫廃散・縁結びなど
江崎社
江崎社
住所/常滑市大野町4-132
   江崎社は、大野町権現町の氏神である。神社の創建年月は不詳であるが、社殿は元和四年(1618)本殿再興と記録が残されている。 祭神は伊弉册尊である。昔、日本武尊東征の折、御難航のため伊弉册尊を念じられ、無事江崎の地へ寄港されたことにより祀られたと伝えられている。 戦国の昔から、この地方に海運業が発達し大野船の名を残したが、その守護神として江崎権現とも称され崇敬を受けている。また、江崎社は、乳の出る神として、虎魚を供えてお願いすると霊験があると伝えられている。 神徳…産業繁栄・商売繁盛・出世開運・豊作・大漁・家内安全・厄除け・延命長寿・無病息災・縁結び・夫婦円満・安産など
内宮御祭宮社
内宮御祭宮社
住所/常滑市大野町8-143
   御祭神は天照大御神である。垂仁天皇の御代に、倭姫命が天照皇大神を奉じて、三ヶ月間この地に滞り、その後、伊勢の地に遷られた。昔は内宮天照皇大神宮と称し、三万七千坪の広大な境内に末社五社を数えた。 文禄、慶長の頃には、度重なる台風高潮の被害を受け、社殿もその都度東の方へ移されたため、境内は四千百五十二坪に減ってしまった。天保五年(1834)には、勅令により現在の社名に改められた。この宮は元伊勢と称して崇敬を受けたことがある。明応六年(1497)初代大野城主佐治伊賀守が社殿の再建を行ったと伝えられる。 美濃国土岐氏伊勢参宮の途、この浦で霊夢があり、帰国後大勝利を得て、神輿・神鏡等を奉納されたという。この神輿は土岐長門守、遠山出羽守などが寄進した物で、現存するものは文久三年(1863)に改造されたといわれ、鳳凰、鳥、鈴等は古い神輿の形を残し、たいへん優美な姿を守っている。神輿は、内宮御祭宮社に眠っている。この写真は、昭和三十四年皇太子殿下のご成婚を記念して大野橋まで担がれた時のものである。戦後担がれたのはこの一度だけである。 また、江戸時代末まで、境内においてあやつり人形戯が盛んであった。明治初年まで夏に内宮社の境内で小屋掛をして、浄瑠璃に合わせて踊らせたものである。当時の人形の「かしら」二箱三六個が現存し、常滑市の有形民俗文化財に指定されている。一方の箱には、『寛政九年丁己六月砂若』『京都富小路角磯屋六兵衛より尾州大野あさや宗四郎様』と記されている。  他方には、『若連中蝶箱壬午文政五年六月吉日砂若』と箱書きがされている。いずれも江戸後期の庶民性をうかがわせる作品である。
小倉天神社
小倉天神社
住所/常滑市小倉町1-25
   御祭神は、豊受大神である。例祭は、四月下旬の日曜日に行われる。 創建は明らかでないが、本国神明帳には「従三位小倉天神大野庄小倉村にあり三狐神と申す」とある。昭和六年三狐神社を小倉天神社と改称した。 享保十四年(1729)の棟札を蔵している。境内には、小倉車の山車蔵があり、秋葉社、熱田社も合祀されている。
佐治神社
佐治神社
住所/常滑市金山字城山46-20
 佐治神社は、佐治氏を祀っている神社である。  室町時代後期、近江国から移住してきた佐治宗貞は一色氏の家臣から台頭し、大野城を奪って三万石(六万石ともいわれる)を領した。  以後、佐治氏は、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いて大野を拠点に、二代の為貞、三代の信方、四代の一成と居城する。  永禄三年(1560)桶狭間の戦いで織田信長に臣従した三代の信方は、織田信長の妹である於犬を正室としていた。天正二年(1574)、信長に従い伊勢長島の一向一揆鎮圧に参戦するが、二二歳で討死する。天正十二年(1584)四代の一成は、お江の方を正室とした。天正十二年、小牧・長久手の戦いで一成は織田信雄の頼みにより、佐屋の渡しにおいて三河へ帰陣する徳川家康の軍勢に船を提供するなど便宜を図っている。ところが、この行動が豊臣秀吉の怒りを買い、佐治一成は改易となった。そして、秀吉は信雄に大野城の攻略を命じて、信雄の軍勢が大野谷に攻め込んできた。しかし、佐治一成は戦わずして大野城を退去したと伝えられる。  ところで、社殿は元々現在の位置にあったが、土砂崩れの心配から「大野城趾」碑の後ろへ玉垣を築き、神域を定めて社殿を建築し、遷座した。しかし、昭和五十五年の模擬天守建築の際、再び今の位置に移された。社殿の佐治与九郎一成座像は、検非違使姿のふくよかで青年らしい精悍な気を込めた顔立ちである。社殿には、「小彦名命」と「大貴巳命」の二つの石碑がある。特に医療とか薬の神様として祀っているとのことである。
天満社
天満社
天満社
住所/常滑市金山字西下手39
 天満社御由緒などによると、その昔、天満社は大野の海浜の松栄寺付近にあったといわれる。社前を往来する船は、必ず帆を下げて通る慣わしがあった。もし誤って帆を下げない時は、船は進まなかった。そのため、帆下天神とも呼ばれていた。  菅原道真公の怨みは、白帆を見る度に繰り返されたという。道真公の遠流のあまりのいたわしさに海の見えない山影の宮山へ移されたといわれている。  江戸時代中期頃、現在地へ移したものといわれ、大野町の一部(十王町、鍛冶町、上砂子)の人々も氏子になっている。例祭には、十王町梅榮車保存会のお囃子も奉納されている。  御祭神である菅原道真公は、弘法大師、小野道風とともに、書道の三蹟とも仰がれている。天満宮(天神)信仰は次第に盛んになり、室町時代には全盛を呈し、やがては文道の大祖神ともいわれ、特に文学、詩歌、書道の神として尊崇されている。  天満社の百度石は、筆の形をし、慶応二年(1866)家内安全大野間瀬籐助建立とある。末社のうち、山神社は油手より、富士社は富士より移された。秋葉社前の常夜灯は寛政六年(1794)、富士社前の四角柱の灯籠は元禄十一年(1698)尾州大野間瀬九兵衛とある。また、拝殿両側に石の座牛が奉納されている。東側は明治三十九年、西側は昭和十年となっている。
熊野神社
熊野神社
住所/常滑市金山屋敷24
 熊野神社は熊野三山の祭神を勧請された神社のことである。御祭神は伊邪那美命、熊野加夫呂命である。熊野詣の隆盛や有力者による荘園の寄進、熊野先達の活動により全国に熊野信仰がひろまったことにより、全国に熊野三山の祭神を勧請した神社が成立した。  ところで、社伝によれば、暦年は詳かではないが、その昔紀伊国熊野三社を金山村字大屋敷へ勧請し村内の氏神とした。享保十一年(1726)の記録には、長禄参己卯年(1459)社殿修覆の棟札が存在する。その後、文久二年(1862)今の地に遷社した。明治五年に村社に列格し、昭和七年に指定社となった。昭和五十九年改修が行われたことが、境内の石柱に記されている。棟札は、長禄三年(1459)、正徳五年、文久二年、文化七年を所蔵している。末社は 山神社、秋葉社である。
神明社
神明社
住所/常滑市西之口8-60
 祭神は豊受大御神である。社伝によれば、欽明天皇の頃(540~571)伊勢外宮を勧請したのが本社の創建である。  神明社には、中世・近世における西之口の状況を推測させようなものがある。中世美濃国の武将土岐氏に関する縁起(元禄十一年建棟札)もその一つである。  伊勢詣りに船できた土岐氏が突風にあって西之口に着いた。神明社で休息中に夢の中で神のおつげを聞き急いで帰国して敵を平定することができた。これにより、神社に古冠・翁面・鏡・太刀・神輿等の神宝を奉納し、社殿修理用に美濃の山を寄進したといわれる。  また、宝暦三年(1753)に大野の浜島伝右衛門が西之口文庫を建て、同時に文庫の修繕、虫干等の入用のために一町余の田畑を文庫田として寄進したといわれている。その後、大野城主佐治氏代々の崇敬を受け、明応六年(1497)には、初代佐治伊賀守が社伝を再建したといわれる。古くは社領三五貫があり、神田としたが、その後波浪により海面に没したという。  昭和四十五年悪火により本殿が焼失したが、同四十七年に再建された。棟札は、正徳五年(1715)、享保四年、宝暦十一年、元文二年、文久二年など多くを蔵している。  なお、神社の北方海岸に昭和六十二年に修復した「五輪宝塔」がある。
(榎戸)神明社
(榎戸)神明社
住所/常滑市神明町3-72
津島神社
津島神社
住所/知多市大草東屋敷37
 御祭神は、素盞鳴命、稲田姫命、吾勝勝速日命、天穂日命、活津彦根命、活津彦命、熊野椽日命、湍津姫命、市杵島姫命、田心姫命の神々が祀られている。創建は明らかではないが、長享二年(1488)再建立の棟札がある。江戸時代には、牛頭天王ノ社と称した。大草を給地された山澄家の崇敬が厚く、宝刀の献納があった。  伊勢湾台風によって本殿、拝殿が倒壊、昭和五十二年造営復旧した。  かつて、大野谷の夏祭りは西之口(七月十日)大草(七月十四日)小倉(七月十五日)で夏の三大祭りの一つに数えられ近辺はもとより半田、名古屋方面からも見物に来たという。
貴船神社
貴船神社
住所/知多市南粕谷本町1-120
 創建は明らかでないが、寛文十一年(1671)御改造の棟札がある。  古来雨乞の神、災害除去の神として崇敬された。最古の棟札は寛文十一年のものである。このほか貞享四年、享保三年、享保十七年、元文元年、寛保二年、延享三年、宝暦六年、安永六年、弘化二年の棟札を蔵している。  南柏谷に鎮座する「貴船神社」は、京都の左京区鞍馬貴船町にある旧官幣中社の「貴船神社」を本社に持つといわれている。  水を司り給う高龗神を祀り、大巳貴命(大国主命)を御祭神に仰ぐ貴船神社は、貴船信仰とともにある。水の霊威は実に広大にして計り知れない。特に治水関係者、農家、醸造家、染織家、航海者、料理飲食業、製菓業、浴場業、その他水商売の人々の信仰が厚い。昭和四十二年本殿、拝殿等の御造営が行われた。  貴船大明神御宝前の常夜燈は安永三年(1774)、手水舎は安永七年(1778)に江畑長兵衛が寄進している。  伝説の中に昔、知多半島に日照りが続いたことがあった。大智院の名僧ずいもう法印が、民衆を哀れに思い、大野村海音寺裏から海を飛んで、京都鞍山の貴船神社へ雨乞いに行き、雨を降らせて村人達は救われたという。この名僧ずいもう法印は別名このは天神と呼ばれている。
寺院
瑞光寺
瑞光寺
瑞光寺
住所/知多市日長会ヶ前78
福田寺
福田寺
住所/知多市日長字江口109
大龍寺
大龍寺
大龍寺
住所/知多市日長字山之腰62
福寿院
福寿院
福寿院 
住所/知多市新舞子字北畑27
普明院
普明院
住所/知多市金沢字廻間87
薬師堂
薬師堂
住所/知多市金沢字南根
随応禅寺
随応禅寺
随応禅寺
住所/知多市金沢字郷中
桂林寺
桂林寺
桂林寺
住所/知多市金沢字殿門戸24
妙音院
妙音院 
住所/知多市新舞子南屋敷21
海音寺
海音寺
海音寺
住所/常滑市大野3-11
 福聚山海音寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は釈迦如来である。  元応二年(1320)相国寺の雪庭玄白和尚により「嶺南山海国寺」として創建された。康永二年(1343)雪村友梅禅師によって開山された。明暦三年(1657)に、福聚山海音寺と改められる。  境内墓地には「兵衛次郎」の銘文を刻んだ石仏がある。これは、大野庄の支配者大野頼清か、その子大野次郎頼時の碑といわれている。頼清(肩書は八条院判官代)より大野を名乗っているようであるから、大野庄に住居していることもあったようである。承久の乱(1221)に朝廷方について戦った大野氏(朝日判官代)は敗戦の結果、所領は没収され処刑された。  当寺には、織田信長の子三七信孝の位牌がある。信孝は野間で切腹したが、家臣の太田和泉守が主君の菩提を弔い位牌を祀ったものといわれる。  常滑市指定文化財の銅製鰐口(1601)がある。  境内には、海中から出現された薬師如来を祀る薬師堂と、そのおりに立ったといわれる「来迎石」と呼ばれる天然の立石がある。  当寺は、この薬師如来のお告げにより、瘡毒の妙薬を出したが、甚だ霊験あらたかであったといわれた。世にこの薬師如来を浜薬師という。十一月八日が例祭である。
宝蔵寺
宝蔵寺
住所/常滑市大野町3-30
   竜王山宝蔵寺は、真言宗智山派の寺院で、本尊は春日定朝作の千手観世音である。中世、宮山に金蓮寺という一山十二坊の名刹があり、宝蔵寺はその一坊であった。金蓮寺は、長く一色氏、佐治氏の祈願寺として栄えてきたが、天正年間、佐治氏が滅び、これにしたがって金蓮寺も廃れた。その頃、宝蔵坊の覚賢が金蓮寺の本尊千手観世音を奉じて、現在の風宮辺りに草堂を建てて安置し、後に現在地に移った。寛永十一年(1634)本堂建立。  宝蔵寺は、知多四国第六十八番の札所で「火防の弘法さん」として親しまれ、火防札、雷除札が有名である。  真言宗寺院として、弘法大師の御尊像を始め真言密教の象徴である金剛界と胎蔵界を表した両界曼荼羅、大師絵伝などが伝わっている。これらは、中之坊寺、宝蔵寺、地蔵寺、大智院の各寺院共有の寺宝となっている。
洞仙寺
洞仙寺
住所/常滑市大野町7-89
   照高山洞仙寺は、浄土宗智恩院派の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。信長時代の当地の豪商薬屋市左衛門開基の古刹である。門が赤いので、赤門寺とも呼ばれている。  境内墓地には、徳川家康の伯母にあたる於万の方と夫小八郎の墓がある。この夫婦は、性誉上人の父母にあたる。寺宝には、家康自筆の軸物一幅がある。  また、境内に大黒天を祀る堂があり、かつては参拝客で賑った。
十王堂
十王堂
住所/常滑市大野町8-60
 十王堂は、東龍寺の古い過去帳に「天正六年(1578)卯十月十王堂…」とあるので、それ以前からあったものと思われる。  享保十六年(1731)五月八日、及び文化三年(1806)十一月九日に大火に遭い焼失したとの記録がある。現在の十王堂は、洞仙寺記に弘化二年(1845)七月に再興されたものと記されている。  このお堂には、本尊の地蔵菩薩を中心にして、その左右に地獄の閻魔王、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王の十人の冥府の王を祀ってある。 それで十王堂というが、他に奪衣婆、五道冥官、倶生神も祀られている。  お堂の格天井八十一面は、森高雅、渡辺清、野村玉渓を始めとする名古屋の有名絵師の絵によって飾られている。扁額は、名古屋の黄檗宗東輪寺無底大亀和尚の書である。  例年八月十五日夜、町の人々が精霊を大野橋から送り、その後、十王堂へお参りする慣わしがある。  十王堂の建っている辺りの町を、昔、十王堂町といっていた。後に十王町と改められた。
東龍寺
東龍寺
東龍寺
住所/常滑市大野町8-68
 巌松山東龍寺は貞観六年(864)天台宗の圓仁和尚慈覚大師が草庵を建てて以来の古刹である。永享年間(1429~1440)浄土宗西山深草派に改宗した。明応四年(1495)夢のお告げによって、阿弥陀如来を比叡山横川の楞巖院から迎え東龍寺の本尊として安置した。  当寺には、常滑市指定文化財「古過去帳」を始め多数の寺宝が保存されている。古過去帳三冊は、室町時代後期からの記述がみられ、県下では最も古いものといわれている。  永禄三年(1560)、織田信長は、「四〇貫文代寺納せしむべき御判並五ヶ条の制札下賜」した。信長の死後、豊臣秀吉は、この「御判並五ヶ条の制札」の所持を許可した。江戸時代になり、徳川家康は、「四拾石寺納」した。これより相続して将軍家代々の朱印を受けた。  「桶狭間の戦い」永禄三年(1560)で、今川義元が織田信長に討たれたとき、徳川家康は、大高から大野東龍寺に逃れて助かり、ここから三河に戻ったことがある。また、「本能寺の変」天正十年(1582)で織田信長が明智光秀に殺されたとき、家康は、堺より伊賀路を超えて大野湊に着いた。当寺の洞山祖誕上人は従兄弟であったので、逗留して軍用金を借用し、後日この軍用金の元利と寺領四〇石の御朱印を与えたことなども書かれている。  享保十五年(1730)町内八〇軒程焼失の大火に際し、幸い本堂は、中門・大門と共に類焼を免れ、野間の大坊に次ぐ古い貴重な建築様式を保っている。
甘露院
甘露院
住所/常滑市大野町8-64
   甘露院は、浄土宗西山深草派の寺院で、東龍寺塔頭の旧七ヶ寺の一つである。開山は天正九年(1581)、開基は文蔵恵允と伝えられている。  本尊は阿弥陀如来であり、両脇に観音菩薩、勢至菩薩を配している。さらに善導大師、法然上人像のほか地蔵菩薩、弘法大師も祀られている。  現在の建物は、文政三年(1820)建立と棟札に記されている。
松栄寺
松栄寺
松栄寺
住所/常滑市大野町8-110
   天満山松栄寺は、天台宗の寺院として、慶長年間(1596~1615)の少し前に創建された。本尊は阿弥陀如来である。  寺域に、守護神として、通称「金毘羅様」と親しまれている金毘羅大権現が祀られている。金毘羅さんは昔から航海の神として漁業関係者や航海に関する人々に厚く信仰されてきた。また雨乞いの神として五穀豊穣をもたらす神でもあった。田植えの時期には人々は金毘羅さんに参拝して降雨を祈った。  また、現在、宮山に祀られている帆下天神として有名な天満社は、昔は当寺の近くに祀られていた。その頃、この下の海を往来する船舶は、必ず帆を下して過ぎ、祭神の菅原道真公に敬意を表す習慣があった。もし誤って帆を下げないと船が進まないので、帆下天神の名が生まれた。しかし、道真公遠流の恨みは白帆を見る度に思い出され、それでは余りにおいたわしいと、大野の海辺から、海の見えない山影の宮山へ移したものといわれている。
齊年寺
齊年寺
住所/常滑市大野町9-139
 萬松山齊年寺は、曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来の座像である。大野城主佐治家の菩提寺として知られている。また、廻船惣庄屋中村権右衛門家、豪商浜島伝右衛門家、佐治家の重臣粟津九郎兵衛家の菩提寺でもある。  当寺は、享禄年間(1528~1532)宮山の大野城の城内に建立されたが、天正十五年(1587)大野城の回録に伴い、運命をともにした。天正十六年(1588)家臣の粟津九郎兵衛により、大野の現在地に再建された。  文久三年(1863)の火災、昭和二十年の大震災に遭い、昭和四十年現在の本堂が再建された。  寺宝の「達磨大師二祖慧可断臂図」は、享禄五年二代目大野城主佐治上野守為貞が菩提寺の齊年寺に寄進したものであり、国宝に指定されている。また、「砧青磁浮牡丹香炉」は、常滑市有形文化財である。そのほか多くの寺宝がある。  境内の経堂は享保三年(1718)浜島伝右衛門五世直利が寄進したものである。齊年寺墓地の清水家の碑に、風宮忠魂碑の由来記が刻まれている。
国宝慧可断臂図
国宝慧可断臂図
   この水墨画は、一般に「達磨大師二祖慧可断臂図」といわれ、雪舟(1420~1506)七七歳、明応五年(1496)の作で、大きさは縦一八三・三㌢、橫一一二・八㌢の水墨画である。雪舟は室町時代の画僧で、日本水墨画の大成者である。雪舟の正式な名前は、雪舟等楊 、厳密にいえば、雪舟が「号」で、等楊は「諱」である。  達磨が座禅修行を行っているとき、神光(のちの慧可)が入門を願って許されず、自ら自分の左肘(臂)を断ち切って決意を示し、許されたと言う問答「達磨安心」の場面を描いた名品である。  雪舟は慧可断臂図で禅僧の精神的な深さ、厳しさを追求した。壮絶な一瞬を、太く短い傾線の連続と単純な曲線の繰り返しで的確にとらえている。顔面のはだ色だけがわずかに温かさを感じさせる。  現在、実物は京都国立博物館に寄託されており、齊年寺ととこなめ陶の森資料館にレプリカがある。
光明院
光明院
光明院
住所/常滑市大野町9-69
光明院は、真言宗醍醐派の寺院で、本尊は大日如来である。  寺伝によれば、天正年間知多郡岡田村に七坊舎があり、その内の一寺を佐治為次(与九郎)が帰依し、時の住職秀山法印に大野庄へ移転するよう懇望した。天正九年(1581)岡田村から現在の地へ移転、佐治家の祈願寺にしたといわれる。  宝暦十三年(1763)の書上に「秋葉権現一社境内御年貢地山伏光明院」との記録がある。江戸時代の近世村絵図にも記されている。  当山の藁沓大師は、足病除大師として有名である。祈願するときは、鼻緒のない藁草履を供える。願いが叶ったときは、鼻緒の付いた藁草履に取り替えるのである。  平野家文書の中に、次の文書がある。  『一護摩堂本尊大日尊  知多郡 大野村修験祈祷所本尊秋葉宮     光明院光道  卯廿八歳   (中略)   文政二年 (1819) 卯五月』  なお、光明院は平成二十四年九月に取り壊された。
光明寺
光明寺
光明寺
住所/常滑市大野町10-53
小林山光明寺は、寺伝及び張州雑志によると聖徳太子の創建で醍醐天皇の勅願所であり、天台宗の寺院として小林村にあった。仏性上人住職の時、三州安城で布教していた親鸞に帰依し、嘉禎元年(1235)浄土真宗に改宗した。第十一世了乗の時、小林の地にあったが兵火に遭い、延徳元年(1489)現在地に移った。  第十四世浄祐の妻は緒川城主水野忠政の娘(家康の母於大の姉)、第十五世浄念の妻もまた緒川城主水野信元の孫であったことから、信元は領田一〇町を寄付している。その頃、二代大野城主佐治上野守為貞も姻戚関係であることから、領田一〇町あまりを鎮守正八幡山野とともに寄付をした。しかし、佐治氏落居の後、織田有益が守護になる時一〇町を減じ、太閤検地の時に領田はすべて没収された。  このころ志摩に勢力をもっていた九鬼大隅守嘉隆が再度にわたり知多を攻略したため、光明寺は、天正十一年(1583)と慶長五年(1600)の二度に渡り焼失している。  しかし、慶長六年(1601)には池田三左衛門により制札が立てられ、さらに、慶長十三年(1608)伊奈備前守忠次が尾張一円を検地した際、本寺を除地として寺領若干を附したと伝えられる。  九鬼氏の兵火に焼失した本堂は、寛永十二年(1635)に造営され往年の盛事をとりもどした。後に享保十年(1725)書院が、また宝暦八年(1758)には本堂が再建された。江戸時代中期には山内に六坊を数え末寺約五〇を擁する尾張三河屈指の名刹であった。大野谷では田中寺、法通寺は六坊のなかに入り、末寺は光泉寺、盛泉寺があげられる。  昭和四十年(1965)本堂が焼失し、昭和五十二年(1977)再建された。  本尊は、常滑市指定文化財の阿弥陀如来である。このほか、市指定文化財の法然上人絵伝を始め、多くの寺宝がある。
田中寺
田中寺
田中寺
住所/常滑市大野町9-67
田中寺は、京都、東本願寺を本山とする真宗大谷派の寺院である。  創建年月は不詳であるが、初めは玄阿弥法印が、小倉縣北浜に天台宗寺院として草創される。明応五年(1496)祐円法師が真宗に改宗し、寺号を田中寺と改めた。その後、永禄年間(1558~1570)大野村の現在地へ移った。  本尊は阿弥陀如来木仏で安阿弥作である。一年間の諸行事を通じて、宗祖親鸞聖人の教えを伝道している。
市見堂
市見堂
市見堂
住所/常滑市大野町10-26
市見堂は俗称を観音堂ともいい、一見堂とも書く。十一面観世音菩薩が祀ってある。創建年月は不詳であるが、文政二年(1819)市見堂守俊道三六歳「文化四年(1807)卯七月より後住職仕候…」(平野家文書)の記録があり、江戸期の資料は多い。  張州雑志に「俗称市見観音十一面ノ像也。在市場町」とある。この堂の所在地付近は、昔、牛馬の市が立ったので、市場町と呼ばれた。その市を見守る観音の堂として、市見堂の名がある。幕末から明治時代にかけて、俳人、文化人の集い寄る所となり、この堂の境内にある句碑に往時が偲ばれる。
蓮台寺
蓮台寺
蓮台寺
住所/常滑市小倉町5-66
小倉山蓮台寺は、時宗の寺として、正和三年(1314)開山は即伝上人で、一色左京大輔道秀によって創建された。古くは花園天皇の勅願所として一山十七坊の巨刹をほこっており、寺領も佐治駿河守宗貞や織田有楽長益によって寄附されていた。しかし、秀吉に広大な寺領を没収されたうえ、慶長五年(1600)に九鬼水軍の来襲を受け多くは焼失して、蓮台寺と塔頭の三光院のみを残すだけになった。現在の本堂は文政三年(1820)頃に再建された(仏具などから推測)。本堂には、花園天皇、一色道秀公、佐治宗貞公、当山歴代上人等の御位牌がある。  正和五年(1316)一色左京大輔道秀寄進銘のある鐘鉦があったが、今は不明である。
寿山塚
寿山塚
境内には寿山塚と呼ばれる古墳がある。その前に古い宝経印塔が建っている。この塚は初代大野城主佐治駿河守宗貞の墓だといわれている。宗貞 (天文元年五月朔日卒) は、法名を齊年寿山といい、城内の寺、齊年寺に葬るべきところを寺域が狭かったため、城の内をはばかってこの地に葬ったものだという。(前駿州大守齊年寿山大居士という。)  宗貞は、自分の主君に当たる一色左京大輔道秀の建てた蓮台寺を厚く保護し、寺領を与えている。宗貞の墓が蓮台寺にあっても不思議ではない。
開かずの門
開かずの門
「勅使門」またの名を「開かずの門」と呼ばれる閉じたままの門がある。昔、花園天皇の勅使がくぐられた門で、「勅使門」と名付けられ、その後、閉じたまま大切に保存されてきた。  また、一説には大野城が落ちたとき、奥方は小倉に逃げてこられて蓮台寺へ入り、内から門をかたく閉ざして奥へ入り身を隠したという。その時から開かずの門といわれ、一度も開けたことのない門だといわれている。
衣掛の松
衣掛の松
古くよりの言い伝えとして、門内西側に古雅なる碑石があり、「きぬ掛松と刻めり。傳へいふ。往昔後花園天皇祈願の為め勅使を此寺に下し玉へる時、其使人の衣を掛られし松なりと」そのころの松は、周り二丈許りもある巨松であったという。  また、この松には、次のような伝説がある。昔、宮山の佐治家と織田家が戦いをして、大野城が今にも落ちそうなとき、佐治家の奥方が守り本尊でもあった阿弥陀如来の掛軸を持って小倉へ逃げたといわれる。  蓮台寺へ着いたとき、追手が押し寄せる様子なので、着ていた衣を境内の松の小枝にかけて井戸に投身の如く死を装い、敵を欺いて、落ちのびたという。それからこの松を衣掛の松というようになった。
三光院
三光院
三光院
住所/常滑市小倉町5-80
時宗の松尾山三光院、開基一色道秀、開山即伝上人、元享二年(1322)寂。  正和三年(1314)本寺小倉山蓮台寺の末寺として建立され、十七坊の内の一寺院である。寛文村々覚書には行正庵と書かれている。文政二年(1819)七月二十七日、三光院と改号。本尊に阿弥陀如来・聖観世音菩薩・不動明王を安置することにより三光院という。  蓮台寺の鬼門除とされ、知多四国第六十七番の札所でもある。  本堂の聖観世音菩薩(一七八㌢、一木造、彫眼、平安時代後期作)は、市指定有形文化財である。また、この聖観世音菩薩は、夢のお告げにより半田成岩の常楽寺から当寺に、移座したとの伝承がある。  なお、三光院は平成二十四年二月に、蓮台寺境内に移された。
蓮生寺
蓮生寺
住所/常滑市小倉町5-103
浄土宗嶋崎山蓮生寺、御本尊阿弥陀如来。元和三年(1617)源誉良悦和尚により開山。  この寺の観音堂は、大野城主佐治氏の乳母創建と伝えられ、御乳御堂観音ともいわれ、「子育観音」として親しまれている。かつては門外にあったものを境内に移したという。  本門の外南側に独特の書体を刻んだ名号碑がある。阿弥陀如来の名をたたえる「南無阿弥陀仏」を名号または六字名号と呼んでいる。徳本・徳住念仏塔とも呼んでいる。向かって右は徳本上人、左は徳往上人の文字を彫ったものである。江戸時代末期(文政年間)の両高僧が諸国を巡錫して、仏教を広め、この寺へも立ち寄ったものだと思われる。  明和五年(1768)十一月二十六日の夜、殿堂が焼失する。その後、明和八年に本堂が、翌年に庫裡が再建された。安永四年(1775)に観音堂を再建し、十一面観音を安置する。かつて小倉村には鍛冶職人が多かったので、境内には火伏せ神が祀られている「秋葉三尺坊権現堂」がある。  近年においては、昭和十九年の濃尾大地震で観音堂が倒壊し、昭和三十年に再建され、庫裡も昭和五十三年に再建された。そして、平成十二年本堂の改築が竣工し、落慶遷座大法要が厳修された。  本尊の木造「五劫思惟弥陀座像」は、自らのほほに焼け焦げをつけながらも人を救ったという伝説がある。また、江戸初期の彫刻で春日仏師の作と伝えられ市指定有形文化財である。
清閑寺
清閑寺
清閑寺
住所/常滑市金山字西下手55
浄巌山清閑寺は、浄土宗西山深草派に属し大野の東龍寺と同じ宗派で御本尊は阿弥陀如来である。  開山は東龍寺五世の空全安誉で天文十年(1541)寂すとある。  天文元年(1531)加賀の国石川郡三ノ宮村白山坊平田寺の住僧が一向一揆の難を逃れ、尊像を奉持して諸国巡回中、当地の浄巌清閑大徳の志願により一宇を建立して霊仏を安置し、当寺を草創する。その後約四五〇年を経過する。文政十年(1827)九月火災のため堂宇を焼失する。現建物は明治三十四年 (1901) の竣工である。  清閑寺の木造阿弥陀如来坐像は高さ六五・三㌢の一木造彫眼で、彩色は全て剥落している。後頭部と腹部の腐蝕が甚だしい。高讃寺の阿弥陀如来立像と比較すると、坐像と立像の差はあるが頭部をやや左に傾けるところと相好が似ていて、同じ作者の製作かと思われる程である。
中之坊寺
中之坊寺
中之坊寺
住所/常滑市金山屋敷25
真言宗智山派、八景山中之坊寺は、かつて聖徳太子開創の縁起を持つ塔頭九ヶ院を擁す金蓮寺の一坊であった。天文年間(1532~1555)金蓮寺院家宝珠院の秀雅法印によって開創されたと伝えられる。宮山熊野神社の神宮寺として栄えた。  金蓮寺は、天正十二年(1584)、九鬼水軍に大野城とともに破却され、その壮麗な伽藍を焼失する。天正十九年(1591)開創の秀雅法印の弟子政憲が、御本尊十一面観世音菩薩を奉じて復興した。  寺宝には、重文涅槃図のほか、市指定文化財の大般泥洹経、愛染明王座像などがある。  知多四国六十六番の札所として、悪疾除けの黒弘法を奉安する。悪病平癒、子供の虫封じに霊験あらたかなことで知られている。また、抱き地蔵があり、願い事が叶うときは軽く、不成就の時は重くなるといわれている。
仏涅槃図
仏涅槃図
仏涅槃図には、中央に宝床台に横たわった釈迦が描かれ、その周りを十人の弟子や神々、王侯貴族、獅子などがその死を嘆き悲しむ様子が描かれている。  仏涅槃図は、その落款や作風から、中国南部の町、寧波で周四郎という画家によって描かれ制作されて日本に伝えられたものであることが明らかになっている。その制作年代はこれまで元代末期から明代初期と推定されていたものの、近年の研究では、さらにさかのぼって南宋期のものと考えられるようになった。  寺宝としてその他に、常滑市の文化財となっている仏画が五幅伝わっている。
全昌院
全昌寺
全昌院
住所/常滑市金山会下前4
亀岳山全昌院は、曹洞宗に属している。天文元年(1532)初代大野城主佐治伊賀守の家臣竹村九郎兵衛によって創建された。当初は瑞龍院と称したが後に今の寺号になる。本尊善光寺如来畧縁起によれば、全昌院の本尊は千手観世音であったが、享保十二年(1727)当時の住持元隣師が取替え、一光三尊(善光寺如来)を祀るようになった。その一光三尊について、次のような話が伝えられている。  一光三尊は清洲五条川より出現したという。今の海部郡萓津の川底に光る仏像があり、それを地元の宗阿弥という人が大切に持ち帰り仏堂に安置すると、宗阿弥の運は次第に開き、太閤秀吉の幕臣にまで出世した。しかし、戦国時代ゆえに自分なき後の仏の供養を考え、名古屋伊勢町で医業を開いていた桜井宗兵衛に託したと伝えられる。桜井氏もあまりにも不思議なことに遭遇した。この霊験あらたかな仏像のことを、全昌院住持元隣師に相談した。住持は有難く引受け、寺に持ち帰って祀り、一心に回向したといわれている。  その後、仏像を祀ってから三〇年目の御開帳の折に桜井氏を寺に招いた。桜井氏は住持の名徳に感じ入り、虫封じの名薬「金宝丸」の処方箋を伝授したといわれる。以来この寺の金宝丸は一光三尊仏とともに有名になったと言われている。現在この薬は作られていない。
西用寺
西用寺
住所/常滑市西之口6-11
天正年間初頭(1573~)に空翁了円上人の創建と伝えられる。海松山西用軒と号したが、海松山という山号は、その昔寺域一帯が松林だったためと思われる。しかし、戦争中の木材供出や松食い虫の被害などで、かつてをしのばせる松は一本も残ってはいない。また、大正十二年寺の名前は西用軒から西用寺と改められたが、昭和六十年頃までは「さいよけさん」と呼ぶお年寄り達がいた。寺の南側にある山門には、西用軒と彫りこんだ文字が見える。  当寺は浄土宗西山深草派の寺院で、そのご詠歌は「西へ行く誓いの舟に用いけん、みのりの海に浮かぶ松ヶ枝」と詠われる。  現在の建物は平成十年に再建された。本堂にお祀りしているのは、正面に阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊、右手の厨子には阿弥陀如来・善導大師・法然上人の像があり、いずれも極楽往生を願う浄土宗の仏様、お祖師様である。また、左手には西国三十三観音像と弘法大師像がある。このうち三十三観音像は、江戸時代後期に近在の人たちによって寄進されたものである。  三十三観音の前面に弘法大師像が二体置かれているが、江戸時代末期に西之口鉄砲津の篤信家から寄進されたものと四国直伝弘法としてお祀りされたものである。観音様や弘法様は家内安全、病気平癒などの現世利益を願う人達によって信仰されてきた。  境内の西には、延命地蔵堂がある。ここに祀られている石のお地蔵さんは、日本三体仏といわれるほどの大きな像である。
微笑寺
微笑寺
住所/常滑市西之口5-23
曹洞宗、拈華山微笑寺。御本尊は阿難尊者である。この寺の創建当時は浄土宗であったが、初代庵主が買い上げて現在の寺の基礎をつくった。明治三十六年に修復され、新たに昭和五十七年に山田智照尼の努力により新築された。門前には、塔と阿難尊者を彫った石塔が建っていて門前からもお詣りできる。  本堂の横の部屋には『知恵の文殊様』の木造座像が祀られている。  本堂横の地蔵堂には、地蔵菩薩が祀られ、両側には三十三観音が安置され秘佛の地蔵様を護っているかのようである。この地蔵堂は近世の「知多風土記」(寛延年間1748~1751)には、「地蔵堂一宇、庵名微笑尼僧居」と記されている。  微笑尼は、西之口領主遠山左衛門景供の妻であるといわれ、十八世紀の前半頃に遠山一族の微笑尼を開山とする微笑堂(庵)へと変わったものと思われる。  拈華山微笑寺とは、拈華微笑という故事から名付けられたのであろう。この故事は釈迦が霊鷲山で弟子達に向かって説法をした時、黙って蓮の花を拈って見せた。迦葉尊者だけがその意を理解してにっこり笑った。そこで釈迦は、仏法のすべてを迦葉尊者に授けたという。心から心へと伝わる妙境の伝えである。
慈光寺
慈光寺
住所/知多市大草西屋敷4
臨済宗妙心寺派、宝苑山慈光寺、御本尊厄除聖観世音菩薩。開基一色修理大夫源満範応永二十一年(1414)寂。中興開祖要津西堂和尚承応二年(1653)寂。開山清源大和尚。  慈光寺は、応永元年(1394)大野城主一色修理大夫源満範によって創建され、鎌倉円覚寺の清源大和尚を開山として迎える。文化年間(1804~1817)第十八世中興開山海禅和尚がある。  本尊の聖観音は開基一色満範公が創建の折、仏師春日大師にお願いし、仏師はその時四二才であり、一刀三礼入魂して厄除観音をつくり安置する秘仏である。弘法堂は大正七年(1918)改築され、本堂は昭和三十八年官材の檜を使い再建された。知多四国札所六十九番であり、知多西国三十三所十七番である。  境内には、開創の歴史を伝える樹齢六百有余年の椎の老木が二本ある。開山の清源大和尚と開基の一色満範公による「御手植えの木」と伝えられ、静かに長い歳月の流れを見守ってきたその姿に、開創の昔がしのばれる。この木の幹には、大きな穴があいていて、その中にお地蔵様が祀ってあったが、現在は、木の前に祀ってある。また、綿屋六兵衛(元禄時代)寄進の水鉢などがある。  辻地蔵堂は、かつて御堂坂にあったために、今でも地名として残っている。  弘法堂脇の朱ぬりの新しいお堂は、近郷の漁民が八〇年前、家門繁栄を祈願して奉安した。豊川稲荷の御分身を祀ってある金運豊川閣である。  山門外の延命地蔵堂は、昭和五十六年二月に修理を終え、弘法堂の昭和の大修理も昭和十六年に完成した。弘法堂の格天井一〇八枚の三十六歌仙の和歌と人物像、花鳥風月等の絵は、川合玉堂画伯の愛弟子玉琴師の作である。  弘法堂の前には「願い石★が安置されており、細長い穴から大師像を覗いて祈願すれば、諸願成就するといわれている。
地蔵寺
地蔵寺
地蔵寺
住所/知多市大草東屋敷43-1
真言宗智山派、摩尼山地蔵寺。本尊には、弘法大師作と伝えられる地蔵菩薩を祀る。  聖武天皇の天平年間に行基が開基したとも伝えられるが、詳細は定かではない。その後数百年の間寺は荒廃したが、文永年間(1264~1275)、良敏上人により再建された。  本堂裏には、井戸から上げたという延命水掛地蔵が祀られている。享保年間(1716~1736)久米村に住むお竹さんという盲目の女性がこの寺に七日七夜参籠したところ、満願の日に夢のお告げがあった。「我は竹林の中にある地蔵である。汝、我を助け出して井戸を改修するならば、盲眼必ず開かん」その通りにしたところ、夜明けとともに目が開き、輝く光を見たという。改修された井戸も境内に残っている。 参詣者はお地蔵さんに水を掛けて自分の痛いところと同じ場所をなでると治るといわれ「延命水掛地蔵」と言われるようになった。 毎月二十四日は、お地蔵さんの縁日で、護摩祈祷を行っている。それは、護摩木という薪を仏前の前で焚く真言宗の秘法である。願い事を書いた護摩木を一本一本読み上げて諸願成就をお祈りするのである。  知多四国七十番の札所でもある。知多市指定文化財の薬師如来坐像(鎌倉時代)、大日如来坐像(鎌倉時代)が安置されている。
大智院
大智院
住所/知多市南粕谷本町1-196
真言宗智山派、金照山清水寺大智院。聖徳太子の開基とも伝えられ、本尊に聖観世音菩薩、前立に馬頭観世音菩薩を安置する。  文明二年(1470)紹綾和尚は、寺内の興隆をはかり、七堂伽藍を整えて、塔頭七坊も建立され、寺勢が一躍隆盛になった。それ故に紹綾大和尚は、中興開山として仰がれている。  明応七年(1498)紹綾和尚のとき、初代大野城主佐治伊賀守為永公の祈願寺となった。当初は「揚柳山」と号したが、天正年間(1573~1592)の兵火も免れたことから、元禄五年(1692)金照山と改称された。身代大師像は、弘法大師が知多を巡錫した際に、自身の像を奉安したものと伝えられている。  祭事は多く、毎月五日・十五日「随求明王七々月参り」、二月三日「節分豆まき式会」、二月十八日「馬頭観音大祭」、八月九日「四観音祭九万九千日盆踊り」、九月二十八日「成田不動尊大祭」、十月第四日曜日「めがね弘法大祭」がある。また、知多四国七十一番札所でもある。  境内には山門、客殿、庫裡、鐘楼、毘沙門堂などがある。  寺宝に大般若経(天保九年奥書、1838)、涅槃像図、両界曼荼羅図がある。釈迦十六善神像(絵画)は、市指定有形文化財である。
身代り大師「めがね弘法」
身代り大師「めがね弘法」
身代大師とは、弘法大師が大智院にて、「我を帰依する者、一切の罪を消滅し、諸有情を安楽ならしめ、業病難病を解脱す、福力常具足し、穀麦財宝ことごとく皆の意の如く得せしめ、悪業煩悩の心を開眼せしむべし」と自らの像を残されたものである。  安政七年(1860)伊予国の浅吉という盲目の老翁が立ち寄り、身代大師に一心おすがりしたところ目が見えるようになったが、代わりに大師の左目が傷ついた。以来、大師は老翁が残した眼鏡を掛けていることから「めがね弘法」と呼ばれるようになった。  境内には、「めがね塚」があり、ここに納められた眼鏡のうち、再利用可能なものは「眼鏡にも第二の人生を」と、御祈祷ののちスリランカなどへ寄贈される。また、眼病予防の目薬を販売する金照堂薬坊も設けられている。  十月第四日曜日の「めがね弘法大祭」では、「先見粥」がふるまわれ、めがね供養がおこなわれる。眼病平癒・健眼長寿の加持祈祷が厳修され、先がよく見え心の目を開くと言われる。
大興寺
大興寺
大興寺
住所/知多市大興寺字落田47
薬師堂
薬師堂
薬師堂
住所/常滑市矢田西根組100
信谷院
信谷院
住所/常滑市矢田西根組139
盛泉寺
盛泉寺
住所/常滑市久米西郷26
光泉寺
光泉寺
住所/常滑市金山平井111
松仙寺
松仙寺
住所/常滑市蒲町1-92
法通寺
法通寺
住所/常滑市港町5-21
龍雲寺
龍雲寺
住所/常滑市神明町2-41
海徳寺
海徳寺
海徳寺
住所/常滑市榎戸町2-82
史蹟 記念物
大野海水浴場(潮湯治)
潮湯治図
大野海水浴場(潮湯治)
住所/常滑市大野1-1
鳥羽法皇の御歌所寄人鴨長明の和歌に詠われたことから、世界最古の海水浴場といわれている。  鴨長明によって「生魚の御あへも清し酒もよし大野のゆあみ日かずかさねむ」と詠われている。  徳川秀忠の見舞状は、慶長三年(1598)頃、腫物に悩み、伏見からこの地に来浴して治療を行っていた弟の福松丸へ宛てたものである。後に、松平薩摩守忠吉として慶長五年(1600)清洲城主となっているが、その後も大野に来浴した。また、一門も時おり潮湯治を試みている。  尾張名所図会(天保十五年)には、「海浜は巌石多くありて、潮水に浴してまた巌上に憩ひなど終日幾度も繰り返すこと五日七日する時は、あらゆる諸病を治す是を世に大野の潮湯治という。暑月には浴場する群集夥しくて」と紹介されている。また、「旅館にこの潮を汲みとらせ、再び湧かして浴するもあり…」とある。
呼吸千里の碑
呼吸千里の碑
住所/常滑市大野1-132
明治十四年に当時の内務省技師、後藤新平および同省衛生局長、長与専斉が調査のために来町し、その結果衛生上最善の浴場と称賛している。その後、愛知県令の委託によりムーテルが海水浴場の試験を行い「海気清潔人身に適す…海水の化学的効果著しく…波動の刺激…能く人身に適し居れし」と指摘している。  これにより、当時の愛知県令国貞廉平が、大野海水浴場発展のため、特に尽力されたことに感謝し、明治二十三年、地元の有志が、この碑を海音寺境内に建てた。後に現在地に移転した。  酒是芳甘魚亦鮮 蓙氛不到枕書眠  官人楽境人知否 例浴恩波已四年  碑面の漢詩は、国貞廉平の大野滞在中の作である。
常夜燈
常夜燈
住所/常滑市大野町8-3
大野川(矢田川)河口の一対の常夜燈は、文久三年(1863)、町内有志が安全を祈願して建てたものである。昔、この常夜燈は、大野橋南詰に建てられ、大野港へ出入りする千石船を見守っていたが、昭和四十三年に現在地に移された。  常夜燈には、道標、燈台などの役目があるが、この常夜燈には、献燈の文字とともに梅鉢あるいは剣梅鉢の紋所が刻まれていることから、昔は大野の海岸にあったといわれる宮山の天満社(帆下天神)とのつながりなどが指摘される。
平野家のうだつ
平野家のうだつ
住所/常滑市大野町9-92
平野家の卯建は、大野町に残された貴重な卯建である。  文化二年(1805)の同家の土蔵建立の棟札が保存されていることから、同家もその前後に建築されたものと思われる。平野家は、かつて酒造業を営んでおり、この卯建のある建物は帳場として使われていたといわれている。  卯建は、明治になってから防火対策として設けられたといわれるが、同家の卯建はよく保存されている。 卯建 ①梁の上に立て棟木を支える短い柱。 ②壁を屋根より一段高く上げて小屋根を付けた部分。 ③江戸時代の民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの袖壁。長屋建ての戸ごとの境に設けたものもあり、装飾と防火を兼ねる。 ④民家の妻側にある棟持柱
びゃくしん
びゃくしん
住所/常滑市大野町6-39
県指定文化財の天然記念物に指定されているイブキは、ヒノキ科の常緑針葉樹で、「柏槇」と呼ばれている。樹高一六・〇㍍、根囲五・六㍍、胸高囲三・九㍍、枝張東西七㍍、南北一〇㍍。樹齢六八〇年を超えるといわれる。  平野家は、代々大野の庄屋を務めた名家で、天正十年(1582)徳川家康が、また慶長十六年(1611)に家康と尾張藩祖徳川義直が同家に宿泊した際、このびゃくしんを称讃したといわれている。  以後、平野家は尾張藩主等が地方見分、鷹狩、潮湯治等のため、当地方へ来た時の定宿となった。また尾張藩主二代目光友の指示により、宿舎は藩費をもって改修拡張され、大野行殿と呼ばれるようになったが、天保の頃廃止された。  また、天正十年(1582)六月二日、京都本能寺で織田信長が殺されたときの記録に「三日京都にて上様、明智日向守、小田七兵衛別心にて御生害の由、大野より申来候」(家忠日記)とある。徳川家康が岡崎へ逃げ帰る途中に大野の平野彦左衛門家に泊ったことが「平野家文書」に記録されている。
芭蕉の句碑
芭蕉の句碑
住所/常滑市大野町10-26
市見堂の境内に、次のような芭蕉の句碑が建っている。  青柳の泥にしたるゝ汐干哉 はせを  この句は元禄七年(1694)の作といわれている。また、この句碑は、大野の俳人杉山巨扇が、芭蕉の真筆を写して建てたものといわれている。巨扇は、大黒屋三代目利兵衛の俳号である。同じく市見堂の境内に、新四国開祖の碑が建っており、それには、次の句が刻まれている。
写真準備中
勅使橋
住所/常滑市小倉町6-93-3
大野から小倉へ通じる道で南側の前山川にかかる橋は、勅使橋と名付けられている。  蓮台寺創建(1314)当時、花園天皇(1308~1318)の勅願寺であった小倉の蓮台寺に勅使が訪れる時に使われた。  村人は、「天皇様のお使いが来られるので、こんな粗末な丸木橋では申し訳ない」ということで、村中力を合せて立派な平橋にかけかえた。勅使橋の名がついたのは、それからである。  また、この橋は大野が海上交通の港町として栄えた時代に、京都、伊勢、大野、亀崎、大浜、岡崎といったルートがあり、都と東国を結ぶ当時の交通路の大切な一地点だった。  現在の橋は昭和五十五年三月竣工
写真準備中
上皇橋
住所/常滑市小倉町1-159
大野から小倉へ通じる北側の矢田川にかかる橋は上皇橋といわれている。  花園天皇が、譲位し、上皇になられてからも、たびたび蓮台寺にお参りになられたとされ、上皇様が来られたときにお通りになったということで、上皇橋と名付けられたという。上小橋と書くこともあったようだ。  上皇は天皇が位を譲られてからの呼名である。  現在の橋は昭和五十四年三月改築
狐塚遺跡
狐塚土器
狐塚遺跡
住所/常滑市晩台町
知多半島の海岸一帯では、古くから製塩が行われていた。また、平城宮跡から見つかった木簡には、この地域から奈良の都へ特産物の塩を送ったことが記されている。  製塩土器は、薄手に作られた碗の下に筒形や角形の脚を付けたもので、濃縮した塩水をそそぎ、煮つめるのに使用した。こうした土器による製塩は、古墳時代の後期から平安時代末の約五〇〇年にわたっていたと考えられる。  小倉町の東側に広がる水田の中に、「狐塚」と呼ばれる塚がある。この塚は、東西約一七㍍、南北約七㍍、高さが約八〇㌢の塚である。  表層部に赤い焼け石や土棒、製塩土器の破片などが散乱していて、古代から製塩が行われていたことが分かる。
枡池
枡池
桝池
住所/常滑市金山字北キロ51-1
この枡池は、約一〇〇㍍四方の正方形の池で、奈良時代の土地区画である条里制の跡が今に残る池である。この池の周辺から、小倉天神社北の旧地名「上ノ内」までの土地が、きちんと条里によって区切られた条里制になっている。「上ノ内」はここまでが「条の内」という意味でつけられた地名であるが、今では、小倉町一丁目と変わっている。  条里制は、奈良時代に大和朝廷の律令制が整ってから、班田収授を合理的に行うためにその支配地域の耕地を碁盤の目のように区画し、土地の位置や面積を明確にしたもので、小倉の東に広がっている大野谷の扇状地にもその条里制が敷かれていた。  碁盤目の大きな一区画は六間間隔で「里」といい、その東西の列を「条」と呼ぶ。「里」はさらに一町ごとに六等分して区切り、三六の区画に細分され、「坪」と呼ばれた。その碁盤目の最小単位の一坪(約一〇九平方㍍)を使ってため池を造成したのが「枡池」である。枡池周辺の土地は今の土地区画がされる前の土地宝典によっても分かるように、整然と区画された条里制の遺構を残している。
大野城
大野城古図
大野城
住所/常滑市金山字城山46-20
大野城は、観応年間(1350)頃、三河国守護の一色範氏が知多半島に勢力をのばし、その子一色範光が伊勢湾を見下ろす青海山に城を築いたのが始まりといい、一色氏は大野湊を中心とした伊勢湾の海運を手中に収めたといわれている。(大野氏が築城したともいわれている)しかし、一色氏は将軍足利義政と対立したため三河守護職を失い、応仁の乱を経て次第に勢力を衰退させる。近江出身の家臣佐治宗貞が主家の内紛に乗じて大野城を奪い、三万石(六万石ともいわれる)を領して大野城主となる。以後、為貞、信方、一成と四代にわたって居城する。  その後、天正十年(1582)本能寺の変後、佐治氏は豊臣秀吉に従わず徳川家康に従ったため、天正十二年(1584)小牧・長久手の合戦後改易となった。佐治氏の後には、織田長益が城主となったが、この城の水利の悪さから大草城を築城して移ったため廃城となった。  佐治氏が居城していた時代には、大野城は背後に知多山脈より伸びた山は複雑な隆起を見せている。大野城は東西四町、南北一町、総郭九二町一反だったといわれる。丘陵のもつ、その起伏の高低を利用して本丸・二の丸・櫓などが構えられ窪地を堀下げた空壕があった。その壕には石垣がない。
石瀬貝塚
石瀬貝塚土器
石瀬貝塚
住所/常滑市金山屋敷30-1
縄文時代の中期から後期へかけては、生活の基礎をなす狩猟や漁撈がめざましい発展を遂げた。石瀬貝塚は、大野谷を形成する前山川の左岸の南側の段丘斜面に約三〇〇平方㍍にわたってひろがっている。  この貝塚の貝層は、基盤をなす熱田層の上に、上・中・下の三層をなして推積している。下層は、ハイガイなどを中心とする双穀類とアカニシなどの腹足類との破砕貝層で薄く広く推積している。魚骨類はタイが目立ち、カツオとフグがみられる。中層は完在貝層で地点によってはアサリの多いところと、ハイガイの目立つところがあった。  陸の獲物では、シカ・イノシシなどの獣骨類も多く、森林にはイノシシが生息し、シカは高く深い森林を好み青海山丘陵あたりに生息したものであろう。また、対岸の大草台地は離れ島となっていた。  人工遺物としては石器と土器とがある。下層の貝層出土の土器はすべて鉢形の中期初頭の土器であり、中層の北屋敷式の新しい土器もすべて鉢形である。さらに、上層の咲畑式に属する土器と三層に分けることがでる。中層貝層出土の土器は、太めの枕線や刺突文などで文様が構成され、ことに最終末に位置づけられた土器には刺突文・隆線や環状の耳が盛んに付けられている。この土器は地方色豊かなものでこの貝塚の名をつけ「石瀬型」と呼ばれている。  下層からは屈葬人骨一体が検出されている。石器では未完成のものも入れて三八個が出土している。石器は打製石鏃(やじり)がみられる。
大草城
大草城の図
大草城
住所/知多市大草東屋敷118
大草城は、天正年間(1573~1591)織田信長の弟、長益が、矢田川とその支流からなる大野谷を拝領していたころ伊勢湾の海上権の確保の目的を持って築城に着手した。しかし、天正十年(1582)に本能寺の変で信長が暗殺され、長益も同十二年小牧・長久手の戦い後、しばらくして豊臣秀吉の家臣となり摂津に転封された。このため、地形などの普請(土塀・壕・仮の館などを造築)が大体終ったところで放棄され、廃城になった。  江戸時代に入って、尾張藩初代(義直)・二代藩主(光友)に仕えた山澄淡路守英龍が大草を給地され、寛文六年(1666)に城址の西南に屋敷を構えるなど、歴代の支配者が保存に力を注いだため、保存状態がよい。  しかし、それ以前に、一色氏が大草城主になった記録がある。北粕谷の八社神社に寛正三年(1462)六月、大草城主一色兵部少輔義遠が八社神社を修復したとある。  昭和五十年に大草公園が誕生して市民の憩いの場となり、お城そっくりの展望台が昭和五十四年四月に完成し、伊勢湾が一望できる。
寺山古墳
寺山古墳
住所/知多市南粕谷本町4-217
矢田川流域の沖積地を展望できる台地の端に位置している。近年にいたって開発がすすみ、地形が一部変化したものの、古墳立地の背景は十分うかがえる。  古墳は直径約一〇㍍、高さ二㍍の円墳で、墳丘はよく保存されている。古墳内部は横穴式石室とみられ、その一部は墳丘外から覗うことができ、墳頂にヤマモモの大木が一本繁茂している。  この地域では、この古墳を鶏鳴塚と呼んでおり、「正月元旦の朝、塚の中から鶏の鳴き声が聞こえるとか、その鶏鳴は三口半だ」などと言い伝えられている。
大野谷虫供養
大野谷虫供養
虫供養とは、農耕の際に殺した虫の供養をする行事で、古来農民としてはウンカなどの害虫の被害は耐えられないものがあり、虫を伊勢の海の彼方へ追いやる習わしがあった。心優しい人々は虫たちも西方浄土で成仏してほしいと願うようになった。 大野谷旧13か村で、当番の年を十二支の年に割り当て、12年で一巡するようになっている。中心行事は道場での供養・お阿弥陀さんの巡回礼拝・彼岸大法要の3つである。道場供養では、「お掛軸仏」を掛け、当人と念仏講の人たちが中心となって朝夕勤行する。道場供養の終わった翌日からは毎日各地の当番の家にお掛軸仏を回し、巡回礼拝(阿弥陀講)が行われる。大法要は秋の彼岸の入りに当番地区の寺で行い、本堂にお掛軸仏を掛けて仏具や供物を供え、境内には大塔婆を建てる。 その由来は、大野城主佐治氏の家臣が主家の没落後、佐治家の守り本尊であった仏の掛け軸4本を大興寺に預け、追善供養をしたのが始まりという説や、大野城落城の際、城主の奥方(お江)が佐治家の守り本尊である阿弥陀如来の掛け軸を持って逃げ、途中につぼけに隠しておいたのを大興寺の土井家のものが見つけて、大切に祀ったのが始まりという説がある。
籠池古窯
籠池古窯
籠池古窯
住所/常滑市金山字
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